板倉滉は、ドイツ ブンデスリーガのボルシア・メンヒェングラートバッハに所属し、ディフェンダーとして活躍するプロサッカー選手です。
また、サッカー日本代表にも召集され、注目を集めています。
出身地はどこで、どんな経歴を持っているのでしょうか?
年俸はどのくらいなのでしょうか?
家族や結婚・彼女はどうなのでしょうか?
この記事では板倉滉のプロフィールを徹底的に調査しました。
サッカーへの情熱、人生観など、彼の魅力に迫ります。
板倉滉とはどんな選手なのか?
プロフィール
板倉滉(いたくらこう)は1997年1月27日生まれ、神奈川県横浜市青葉区出身のプロサッカー選手です。
現在はドイツのブンデスリーガ所属のボルシア・メンヒェングラートバッハに所属し、背番号は3番をつけています。
身長188cm、体重80kg、利き足は右足、愛称は「コウ」です。
読みを活かした鋭いタックルとボール奪取、188cmの恵まれた体躯を活かした空中戦の強さが武器で、現代的なビルドアップ能力も兼ね備えた「現代型センターバック」として高く評価されています。
ポジションと特徴
ポジションはディフェンダーで、主にセンターバックとしてプレーしますが、守備的ミッドフィールダーとしても起用可能な万能型の選手です。
特徴としてまず挙げられるのが守備力の高さです。
日本サッカー協会のデータによると、日本代表内で最高値となる守備力を記録しており、1対1の場面での強さやカバーリング能力の高さが世界レベルと評価されています。
また、ビルドアップ能力も彼の大きな強みです。
最終ラインから正確なパスで攻撃の起点を作り、時にはドリブルでボールを持ち運んで攻撃に厚みを加えることができます。
さらに、守備的な役割を全てこなせるユーティリティ性も見逃せません。
センターバックを中心としながら守備的なボランチもこなせる器用さが、チーム戦術の幅を広げる重要な要素となっています。
板倉滉の出身地は?
出身地は神奈川県横浜市青葉区
出身地は、神奈川県横浜市青葉区です。
青葉区は横浜市の北西部に位置し、1994年に緑区から分区して誕生した比較的新しい行政区です。
この地域は「田園都市線沿線」として知られ、渋谷から約30分という都心へのアクセスの良さと、豊かな自然環境が調和した魅力的な住宅エリアとして人気を集めています。
青葉区には「寺家ふるさと村」という貴重な里山景観が保全されており、四季折々の自然を楽しめる散策路や昔ながらの農村風景が残っています。
また、「こどもの国」や「あざみ野駅周辺」など、ファミリー層に人気の施設やショッピングエリアも充実しています。
教育環境も非常に充実しており、区内には多くの進学校や私立学校が集まっているほか、住民の教育意識も高く、「教育の街」としても知られています。
出身の有名人には、プロ野球選手の松井裕樹さん、お笑い芸人の斎藤司さん、シンガーソングライターの秦基博さんなどがいます。
このような環境で育った板倉滉は、幼少期から質の高い教育とスポーツ環境に恵まれ、現在の成功の基盤を築いていったと考えられます。
小学校、中学校、高校、大学は?
小学校は、川崎市立鷺沼小学校に入学し、その後小学3年生で横浜市立荏子田小学校に転校しました。
小学4年生の時、Jリーグの下部組織に所属し、本格的なサッカー人生をスタートさせました。
中学校は横浜市立すすき野中学校に進学し、サッカーはJリーグの下部組織でプレーしていました。
高校は神奈川県立川崎北高校へ進学。
ここでもJリーグの下部組織でプレーしました。
大学は進学せず、高校卒業後にJリーグの下部組織からトップチームに昇格し、プロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせました。
板倉滉の経歴は?
年 | クラブ | 出場 | 得点 |
---|---|---|---|
2015-2018 | 川崎フロンターレ | 7 | 0 |
2015 | Jリーグ・アンダー22選抜(loan) | 2 | 0 |
2018 | ベガルタ仙台(loan) | 24 | 3 |
2019-2022 | マンチェスター・シティFC | 0 | 0 |
2019-2021 | FCフローニンゲン(loan) | 56 | 1 |
2021-2022 | シャルケ04(loan) | 31 | 4 |
2022- | ボルシア・メンヒェングラートバッハ |
プロ入り前の経歴
幼少期からサッカーに親しみ、地元の高木SC、さぎぬまSC、あざみ野FCでその才能を育み始めます。
小学4年生で川崎フロンターレU-12の一期生として加入後、
中学校では川崎フロンターレU-15、
高校では川崎フロンターレU-18と順調にステップアップを重ねました。
U-18時代には3年生でキャプテンを務めるなど、早くからリーダーシップを発揮していました。
しかし、プロ入りへの道は決して平坦ではありませんでした。
急激な身体の成長により動きのバランスが崩れ、高校2年生のJユースカップ準決勝では自身のミスでチームが敗退。
この経験を「サッカー人生で一番悔しかった試合」と振り返っており、挫折を乗り越えて成長する精神力を培いました。
2014年に川崎フロンターレトップチームに2種登録選手として昇格し、翌2015年からプロ契約を結んでキャリアをスタートさせました。
Jリーグでの経歴
2015年に川崎フロンターレでプロデビューを果たした板倉滉は、当初は出場機会に恵まれませんでしたが、2015年にJリーグ・アンダー22選抜への期限付き移籍を経験し、実戦経験を積みました。
川崎フロンターレでは主にセンターバックとボランチを使い分け、ユーティリティ性の高さを評価されていきました。
しかし、レギュラーポジション獲得には至らず、より多くの出場機会を求めて2018年にベガルタ仙台へ期限付き移籍することになります。
ベガルタ仙台では、センターバックとしてJ1リーグ24試合に出場し3得点を記録。
この活躍が評価され、なんとイングランドの名門マンチェスター・シティからオファーを受けることになります。
イングランドでの経歴
2019年1月、マンチェスター・シティFCと契約し、海外挑戦をスタートさせました。
しかし、世界最高峰のプレミアリーグでは即座にトップチームでの出場機会を得ることは難しく、経験を積むためのレンタル移籍が決まりました。
マンチェスター・シティでの直接的な出場はありませんでしたが、この移籍により国際的な注目を集め、欧州での本格的なキャリアの扉が開かれました。
この移籍により世界最高レベルの練習環境を経験し、後の飛躍に向けた貴重な土台を築いたと考えられます。
オランダでの経歴
マンチェスター・シティ加入直後の2019年から2021年までオランダ1部リーグ(エールディビジ)のFCフローニンゲンに期限付き移籍しました。
フローニンゲンでの活躍は目覚ましく、2シーズン半で通算56試合に出場し3得点を記録しました。
初年度は背番号17番でスタートし、翌シーズンには5番に変更されるなど、チーム内での評価も上昇していきました。
オランダでのプレーを通じて、戦術理解力とビルドアップ能力を大幅に向上させ、欧州サッカーへの適応を果たします。
特に2020-21シーズンには、フローニンゲンのクラブ最優秀選手に選出されるという快挙を達成。
この評価により、さらなるステップアップを目指すことになりました。
ドイツでの経歴
2021年8月、ドイツの名門シャルケ04に期限付き移籍しました。
シャルケは前シーズンに1部リーグから2部リーグに降格していましたが、板倉滉はこの困難な状況をチャンスと捉えて挑戦しました。
シャルケでの活躍は圧巻で、背番号3番を背負い、1年目から中心選手として49試合に出場し7得点を記録。
特に『キッカー』誌の平均採点では3.03(1が最高点)という高評価を獲得し、「前半戦No.1センターバック」として覚醒しました。
板倉滉の安定したパフォーマンスにより、シャルケは2部リーグ優勝を果たし、1部リーグ復帰を成し遂げました。
この活躍により、シャルケは完全移籍での獲得を希望しましたが、買い取りオプション行使額が600万ユーロ(約8億5000万円)と高額であることなどから、最終的に完全獲得を断念することになりました。
2022年7月、板倉滉はドイツ1部リーグの名門ボルシア・メンヒェングラートバッハ(ボルシアMG)に完全移籍しました。
ボルシアMGでの現在は、移籍初年度からセンターバックの定位置を確保し、負傷などがありながらも安定したパフォーマンスを見せています。
2024/25シーズンには25試合終了時点で23試合にフル出場し、チームの最終ラインを支える不可欠な存在となっています。
最近では評価の高まりにより、PSVアイントホーフェンなど他クラブからの関心も高まっており、ボルシアMGは「クラブのトップ年俸選手の一人となる契約」を提示して引き留めを図っているとされています。
日本代表での経歴
板倉滉は日本代表で各年代を着実にステップアップしてきました。
2015年に初めてU-18代表に選出され、2試合に出場しました。
この時期から既に将来性を評価されていたことがうかがえます。
2016年にはU-19代表として2試合に出場。
徐々に年代別代表での存在感を高めていきました。
2017年にはU-20代表として5試合に出場。
この年にはU-20ワールドカップへの出場も経験し、国際舞台での経験を積みました。
2018年にはU-21代表として14試合に出場し、2得点を記録。
この年代では最も多くの出場機会を得て、中心選手としての役割を果たしました。
2019年~2020年にかけて 東京オリンピック世代として、U-23代表では5試合に出場。
オリンピック出場に向けた重要な時期を過ごしました。
2021年の東京オリンピックでは、U-24代表として6試合全てに出場し、日本代表の史上初となるベスト4進出に大きく貢献しました。
2019年のコパ・アメリカでA代表デビューを果たし、現在まで37試合に出場し2得点を記録しています。
2022年のカタール・ワールドカップでは全試合に出場し、日本代表のベスト16進出に貢献。
ドイツ戦、スペイン戦での逆転勝利という歴史的快挙にも重要な役割を果たしました。
現在では日本代表の最終ラインを統率する不可欠な存在として、森保一監督からの絶大な信頼を得ています。
板倉滉の年俸は?
年俸はキャリアに従って着実に上昇しきました。
川崎フロンターレ時代の年俸は公表されていませんが、J1リーグの若手選手として標準的な水準だったと推測されます。
フローニンゲンでの初年俸は約9500万円(60万ユーロ)でした。
当時22歳の日本人選手としては破格の待遇で、クラブからの期待の高さがうかがえます。
シャルケ04への移籍により年俸は約1億2400万円に上昇。
2部リーグのクラブながら、名門シャルケでの重要性が反映された金額となりました。
ボルシア・メンヒェングラートバッハでの年俸は約3億円に達しており、これは欧州で活躍する日本人選手の中でも9位という高水準です。
クラブ内でもトップ10に入る高額契約となっており、チームでの重要度が反映されています。
また、ボルシアMGは板倉滉の契約延長に向けて「クラブのトップ年俸選手の一人となる契約」を提示しているとされ、さらなる年俸アップの可能性が示唆されています。
このように、板倉滉の年俸は彼の実力向上とキャリアアップに比例して着実に上昇しており、現在では世界トップレベルのセンターバックとしての評価を得ていることがわかります。
※金額は推定です。
板倉滉の家族は?
家族は父・母・本人・妹の4人家族です。
父親は高校時代にピッチャーとして野球に打ち込んでいた元高校球児だそうです。
平成の怪物・松坂大輔投手が横浜高校で活躍していた時期で、父親は息子に「松坂のピッチングを目の前で滉に見せるんだ!」と言って甲子園に連れて行ったこともありました。
板倉滉が3歳の時にグローブ、4歳の時に木製バットをプレゼントし、キャッチボールやバッティングセンターでの練習に付き添うなど、まさに「チチロー」を目指していたことがわかります。
息子がサッカーに転向した後も、スパイクを買い与えて応援し続けたといいます。
母親は学生時代にバレーボール部に所属していたそうです。
垂直跳びは70cm近くを跳ぶことができ、板倉滉の優れたジャンプ力は母親譲りとされています。
特筆すべきは、母親が板倉滉の川崎フロンターレ入団のきっかけを作ったことです。
小学生の頃、偶然フロンターレのホームページで下部組織設立のニュースを見つけ、「受けるだけ、受けてみようか?」と息子と話し合い、締切間際に急いで書類を整えて事務所に持参しました。
この行動力が板倉滉の現在の成功につながっています。
妹は1歳年下であることは分かっていますが、詳細な情報は公開されていません。
板倉滉は家族を「尊敬する人」として挙げており、温かい家族関係を築いていることがうかがえます。
板倉滉は両親について「大きな身体に育ててくれてありがとう」と感謝の言葉を述べており、家族全員が彼の一番の理解者として、現在の成功を支えていることは間違いありません。
板倉滉は結婚している?彼女は?
板倉滉は結婚していません。
また、彼女に関する報道もありません。
過去に数名の女性との噂が取り沙汰されたことはありますが、いずれも具体的なスクープ報道や確証のある情報ではありませんでした。
過去のインタビューでは、好きな女性のタイプを「優しい人、大人な人」と答えており、好きな芸能人として「有村架純、石原さとみ」を挙げていました。
27歳という年齢を考えると、選手として円熟期に入る今後数年間で、プライベートな面でも新たな展開があるかもしれません。
ただし、現在はドイツでの生活とサッカーに集中しており、恋愛や結婚に関する具体的な動きは見られていません。
海外でのプレーや日本代表活動など多忙な日々を送る中で、仕事と私生活のバランスを大切にしながら充実した時間を過ごしていると考えられます。
今後、恋愛や結婚に関する報告があることを期待して見守っていきたいと思います。
まとめ
ここまで板倉滉の出身地や経歴、年俸、家族、結婚・彼女について詳しく紹介しました。
海外で活躍し、サッカー日本代表にも召集されています。
今後の活躍がますます期待されます。
これからも、 板倉滉の活躍に注目していきましょう!