長友佑都は、JリーグのFC東京に所属し、ディフェンダーとして活躍するプロサッカー選手です。
出身地はどこで、どんな経歴を持っているのでしょうか?
年俸はどのくらいなのでしょうか?
家族や結婚・彼女はどうなのでしょうか?
この記事では長友佑都のプロフィールを徹底的に調査しました。
サッカーへの向き合い方、人生観など、彼の魅力に迫ります。
長友佑都とはどんな選手なのか?
プロフィール
長友佑都(ながとも ゆうと)は1986年9月12日生まれ、愛媛県西条市出身のプロサッカー選手です。
現在はJリーグのFC東京に所属し、背番号は50番をつけています。
身長170cm、体重68kg、利き足は右足、愛称は「ナガ」「モトリーノ」「ナガティエロ」などです。
サッカー日本代表で2010年南アフリカ、2014年ブラジル、2018年ロシア、2022年カタールの4大会連続ワールドカップ出場という偉業を成し遂げています。
ポジションと特徴
ポジションはディフェンダーです。
左サイドバックとして活躍していますが、右サイドバックとしてもプレーできる万能型ディフェンダーです。
特徴として最も挙げられるのが、圧倒的な運動量とスピードです。
豊富な運動量と抜群のスピードを武器に、攻撃時には中盤の選手を追い越して数的優位を作り出し、守備時には誰よりも早く帰陣してカウンターを防ぐ力強いプレーが持ち味です。
また、対人戦にも優れており、特にドリブラー相手の粘り強い守備は見応えがあります。
上背はないものの、大型FWにも競り負けないフィジカルと身体能力の高さを誇ります。
そして、彼の最大の長所は「決して下を向かないメンタル」です。
苦しい局面でも、常にポジティブな姿勢でプレーし、チームメイトを鼓舞する姿勢は、日本代表でもクラブチームでも高く評価されています。
イタリアの名門インテル・ミラノでは約200試合に出場し、一時はキャプテンマークを巻くなど、リーダーシップ面でも信頼を得てきました。
長友佑都の出身地は?
出身地は愛媛県西条市
出身地は、愛媛県西条市(旧・東予市)です。
西条市は愛媛県東部に位置し、「四国の水都」とも称される自然豊かな地域です。
名水百選にも選ばれた「うちぬき」と呼ばれる自噴水が市内各所で見られ、水質の良さで知られています。
石鎚山を背景に広がる市内には、農業や工業、そして観光など様々な産業が共存しており、調和のとれた発展を続けている都市です。
伝統的な「西条まつり」では、豪華絢爛な太鼓台が街中を練り歩く様子が全国的にも有名で、地域の団結力を象徴するイベントとなっています。
また、西条市は四国随一の工業地帯としても知られており、多くの製造業の工場が立地しています。
出身有名人は、歌手の秋川雅史さん、お笑い芸人の高岸宏行さん、タレントの眞鍋かをりさんなどがいます。
小学校、中学校、高校、大学は?
小学校は愛媛県西条市立神拝小学校に通いました。
この頃から地元のサッカーチームに所属し、サッカーの基礎を学び始めました。
中学校は西条市立西条北中学校に進学しました。
高校は福岡県の名門・東福岡高校へ進学。
全国レベルの強豪校のサッカー部で切磋琢磨しました。
大学は明治大学に進学し、政治経済学部で学びながらサッカー部に所属しました。
長友佑都の経歴は?
年 | クラブ | 出場 | 得点 |
---|---|---|---|
2008~2010 | FC東京 | 72 | 5 |
2010~2011 | ACチェゼーナ | 16 | 0 |
2011~2018 | インテル・ミラノ | 170 | 9 |
2018~2020 | ガラタサライ | 47 | 2 |
2020~2021 | オリンピック・マルセイユ | 25 | 0 |
2021~ | FC東京 |
プロ入り前の経歴
小学生時代から地元の神拝サッカースクールでサッカーを始めました。
小学6年生の時に愛媛FCジュニアユースのセレクションを受けるも不合格となりましたが、この挫折が彼の向上心を刺激することになります。
中学時代は西条北中学校でプレーし、恩師の井上博先生の指導のもと、サッカー選手としての基礎を築きました。
この時期から持ち味である「走る」ことを徹底的に鍛えられ、現在の走力の素地が形成されました。
高校は強豪の東福岡高校のサッカー部に所属。
全国レベルの選手たちと切磋琢磨する中で技術面でも大きく成長します。
高校時代はまだミッドフィールダーとしてプレーしていました。
大学時代は明治大学のサッカー部に所属していました。
大学サッカー部では、神川明彦監督によって右サイドバックへコンバートされました。
この転機により、後のプロキャリアの基礎が築かれることとなります。
大学2年時にはU-22日本代表に選ばれ脚光を浴び、同年に全日本大学選抜にも選出されるなど注目を集めるようになります。
2007年にはJFA・Jリーグ特別指定選手としてFC東京でのプレーを開始。
翌2008年に明治大学サッカー部を退部し、FC東京との契約を結んでプロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせました。
Jリーグでの経歴
2008年にFC東京でプロデビューを果たします。
デビュー初年度からJリーグ優秀選手賞と優秀新人賞をダブル受賞するなど、そのポテンシャルの高さを示しました。
FC東京では主に左サイドバックとしてプレーし、豊富な運動量と粘り強い守備で徐々にチームの中心選手へと成長していきました。
2008年から2010年までの約3年間で72試合に出場し、5得点を記録しています。
2009年には日本代表にも選出され、徐々に国内外からの注目を集めるようになりました。また同年にはJリーグベストイレブンにも選出されています。
2010年のFIFAワールドカップ南アフリカ大会では日本代表の主力として出場。
世界の舞台でのパフォーマンスが高く評価され、同年7月にイタリアのACチェゼーナへの移籍が決定し、海外でのキャリアをスタートさせました。
その後、2021年に約11年ぶりにFC東京へ復帰。
ヨーロッパでの豊富な経験を活かし、チームの要として再び日本のピッチに立っています。
イタリアでの経歴
長友佑都の海外キャリアは2010年7月、イタリアのACチェゼーナへの移籍から始まりました。
当時はチェゼーナがセリエAに昇格したタイミングでの加入となり、日本人として9人目のセリエA選手となりました。
チェゼーナでは2010-2011シーズン前半に16試合に出場し、安定したパフォーマンスを示しました。
そのプレーが評価され、2011年1月には当時のセリエAの強豪インテル・ミラノへレンタル移籍。
半シーズンのレンタル期間中には13試合に出場し2得点を記録する活躍を見せ、チームへの貢献が認められました。
インテルでの実績が評価され、2011年6月には完全移籍が成立。
2011年から2018年までの約7年間、インテルの一員として活躍しました。
インテル在籍中は、公式戦210試合に出場して11得点を記録。
左サイドバックを主戦場に、その俊足と運動量を活かしたプレーで「ネラッズーリ(インテルの愛称)」のファンからの支持も厚く、一時期はキャプテンマークを任されるほどでした。
2013-2014シーズンには当時のインテル会長から「このチームのリーダー」と称えられるなど、チーム内での信頼も厚かったことがうかがえます。
イタリアでは技術的にも戦術的にも大きく成長し、ディフェンダーとしての能力を国際レベルにまで高めました。
インテルでの7シーズンの間に、コッパ・イタリア(イタリアカップ)優勝を経験するなど、ヨーロッパトップレベルでの競争力を持つクラブでの活躍を通じて、サッカー選手としての価値を大きく高めました。
トルコでの経歴
2017-18シーズン後半、インテルでの出場機会が減少していた長友佑都は、ロシアワールドカップ出場を見据えて、2018年1月にトルコの名門ガラタサライSKにレンタル移籍しました。
レンタル移籍期間中の半シーズンで15試合に出場し、安定したパフォーマンスを見せたことで、2018年夏には完全移籍が決定。
2018年から2020年までガラタサライの一員として活躍しました。
トルコでの2年間で公式戦合計47試合に出場し、2得点を記録。
特に最初のシーズンは充実しており、トルコリーグ(スュペル・リグ)優勝やトルコカップ優勝など、タイトル獲得にも大きく貢献しました。
イスタンブールのアリ・サミ・イェン・スタジアムでは、ガラタサライのサポーターから「ナガ、ナガ、ナガトモ!」という歓声が響き渡るなど、ファンからの人気も高かったことが報じられています。
しかし、2020年には外国人選手の人数規定によりガラタサライ側から戦力外通告を受け、同年6月30日に契約満了し退団しました。
フランスでの経歴
2020年8月31日、フランスリーグ・アンの名門オリンピック・マルセイユへの移籍が発表されました。
フランスでのプレーは長友佑都にとって3カ国目のヨーロッパリーグ挑戦となりました。
マルセイユは「OM(オーエム)」の愛称で知られる、フランスで最も人気と歴史のあるクラブの一つです。
1993年にはUEFAチャンピオンズリーグを制した強豪クラブでもあります。
マルセイユでの1シーズンでは、リーグ戦やUEFAチャンピオンズリーグなどの公式戦で合計25試合に出場しました。
チームではアンドレ・ビラス=ボアス監督やホルヘ・サンパオリ監督のもと、主にサイドバックとして起用されました。
しかしながら、期待されたほどの出場機会には恵まれず、翌2021年夏にはチームを離れることとなりました。
日本代表での経歴
代表キャリアは、明治大学2年生だった2006年、全日本大学選抜に選出されたことから始まりました。
大学サッカーの精鋭が集う中で、神川明彦監督によって右サイドバックへコンバートされた長友佑都は、その運動量とスピードを活かしたプレーで注目を集めました。
2007年には、ユニバーシアード日本代表にも選出され、タイのバンコクで開催された第24回ユニバーシアード夏季競技大会に出場。
この大会での活躍が評価され、その後のキャリア発展に大きく貢献しました。
2008年、長友佑都は北京オリンピックのサッカー競技に出場するU-23日本代表(オリンピック代表)に選出されました。
当時の反町康治監督の下、グループリーグではナイジェリア、アメリカ、オランダと対戦。
全試合に出場したものの、後に「余裕がなかった」「思い通りのプレーはできなかった」と振り返っています。
A代表デビューは2008年5月24日、国立競技場で行われたコートジボワール代表との親善試合で、フル出場により日本代表デビューを果たしました。
当時の岡田武史監督は「彼の運動量と攻撃参加の積極性が際立っていた」と評価しています。
このデビュー戦では、右サイドバックとしてプレーし、持ち前の果敢な攻撃参加とスピードを活かした守備で好印象を残しました。
また、この年にはキリンカップやアジア杯予選にも出場し、代表チームでの基盤を築き始めました。
2009年、AFC(アジアサッカー連盟)アジアカップカタール予選や2010年FIFAワールドカップ南アフリカ大会の最終予選に召集され、徐々に代表チームでの立ち位置を固めていきました。
そして2010年6月、南アフリカで開催されたFIFAワールドカップに日本代表の一員として初出場。
グループリーグではカメルーン、オランダ、デンマークと対戦し、左サイドバックのレギュラーとして全4試合に先発出場しました。特にグループリーグ第3戦のデンマーク戦では攻守に渡る活躍を見せ、3-1での勝利に貢献しました。
2011年1月、カタールで開催されたAFCアジアカップでは、ザッケローニ監督の下、全試合に出場し、日本の優勝に大きく貢献しました。
大会決勝ではオーストラリアに1-0で勝利し、長友佑都はアジアNo.1のサイドバックとしての評価を不動のものとしました。
2013年には2014FIFAワールドカップブラジル大会のアジア最終予選に出場。
さらに同年6月のFIFAコンフェデレーションズカップブラジル2013にも選出され、W杯の前哨戦と言われる大会での経験も積みました。
2014年6月、ブラジルで開催されたFIFAワールドカップには2大会連続の出場を果たします。
3試合で1分2敗と振るわず、グループリーグ敗退という結果に終わりましたが、長友自身は全3試合に先発出場し、安定したパフォーマンスを見せています。
2015年1月に開催されたAFCアジアカップオーストラリア2015では、ハリルホジッチ監督の下、日本代表はベスト8まで進出。長友佑都は大会を通じて主力として活躍しました。
2016年からは2019年AFCアジアカップUAE大会の予選や2018年FIFAワールドカップロシア大会のアジア最終予選に参加。チームの中心選手として、重要な試合で安定したパフォーマンスを見せています。
2017年から2018年には、西野朗監督が率いる日本代表の一員として2018FIFAワールドカップロシア大会のアジア最終予選をプレー。
そして2018年6月、ロシアで開催されたW杯本大会には3大会連続の出場となりました。
このロシア大会では、「死の組」と言われたグループHでコロンビア、セネガル、ポーランドと対戦。
長友佑都は全4試合にフル出場し、守備の要として日本の決勝トーナメント進出に大きく貢献しました。特にセネガル戦での粘り強い守備は高く評価されています。
決勝トーナメント1回戦ではベルギーと対戦し、2-0とリードする場面もありましたが、終盤に逆転され3-2で惜敗しました。
2019年1月、UAEで開催されたAFCアジアカップ2019では、森保一監督の下、日本代表は準優勝を果たしました。
長友佑都はこの大会でも主力として出場し、決勝までの道のりをリードしました。決勝ではカタールに0-3で敗れるも、長友自身のパフォーマンスは安定していました。
2021年にはAFCアジアカップ中国2023予選や2022FIFAワールドカップカタール大会のアジア最終予選に参加。
そして2022年11月、カタールで開催されたFIFAワールドカップには4大会連続の出場を果たすという偉業を達成しました。
これは日本代表フィールドプレーヤーとしては史上初、ゴールキーパーを含めても同大会で選出された川島永嗣を含め歴代4人目(川口能活、三浦知良、川島永嗣、長友佑都)というタイ記録でした。
カタール大会では、再び「死の組」と評されたグループEでドイツ、スペイン、コスタリカと対戦。長友佑都は全4試合にスタメン出場し、特にドイツ戦では「ブラボー」で象徴される闘志あふれるプレーで2-1の逆転勝利に貢献。
スペイン戦でも2-1で勝利し、グループ首位通過という歴史的快挙を達成しました。
決勝トーナメント1回戦ではクロアチアと対戦し、PK戦の末に敗退するも、長友佑都は36歳という年齢を感じさせない活躍を見せました。
この大会で長友佑都は通算15試合の出場を記録し、これは日本人選手として最多の記録となっています。
2023年以降も、長友佑都は日本代表の一員として活動し続けています。
2025年現在、2026年の北中米ワールドカップに向けた予選が進行中であり、長友佑都は5大会連続出場という前人未到の記録に挑戦しています。
長友佑都の年俸は?
年俸は、キャリアを通じて大きく変動してきました。
FC東京でプロキャリアをスタートさせた2008年の年俸は約300万円と言われています。
翌2009年には2000万円、2010年には2500万円と順調に昇給しました。
2010年夏にACチェゼーナへ移籍すると年俸は一気に1億1000万円に跳ね上がります。
その後、インテル・ミラノへの移籍に伴い、2011-2012年、2012-2013年シーズンは1億4000万円となりました。
インテルでの活躍が認められ、2013-2014年、2014-2015年、2015-2016年は4億円、2016-2017年は4億3750万円と、日本人サッカー選手としてはトップクラスの年俸を手にしていました。
2017-2018年、2018-2019年のガラタサライ時代は2億4000万円から2億5920万円、2019-2020年のマルセイユ時代は約5000万円と報じられています。
2021年にFC東京へ復帰した際の年俸は不明ですが、2022年から2025年にかけては、9000万円から1億5000万円の間で推移していると思われます。
ただし、上記の金額はあくまで報道ベースの推定であり、実際の契約内容とは異なる可能性もあります。
※金額は推定です。
長友佑都の家族は?
家族構成は、父、母、本人、弟、妹の5人家族です。
父親の長友洋行さんは、長友佑都が小学3年生のときに母親と離婚し、その後は北海道苫小牧にて「株式会社DAICHI」を経営しています。
高校時代は愛媛県西条高校の野球部で4番バッターを務めるなど、スポーツへの造詣が深かったようです。
母親の長友りえさんは、離婚後も冠婚葬祭の司会業をこなしながら3人の子供(本人、弟、妹)を育て上げました。
3人とも大学に進学させるなど、子育てに尽力した様子が伺えます。
また、将来に備えて生命保険3000万円に加入するなど、きちんとした計画性も持ち合わせていたようです。
弟は東京ガスに勤務しており、サッカー選手の道は選びませんでした。
妹は津田塾大学に進学し、イタリア留学の経験もあります。
長友佑都のイタリア時代には生活をサポートしていたことも。
長友佑都のサッカー選手としての成功は、これら家族の支援があったからに他なりません。
長友佑都は結婚している?彼女は?
長友佑都は結婚しています。
2017年1月29日に女優・タレントの平愛梨さんと入籍し、同年6月24日に東京都内のホテルで挙式を行いました。
二人の出会いは2013年12月。
お笑い芸人の三瓶さんを通じて知り合い、その後、友人関係から交際へと発展しました。
当時、長友佑都はインテル・ミラノに所属しており、日本とイタリアの間で遠距離恋愛を続けました。
2016年6月に長友佑都は記者会見で平愛梨さんのことを「アモーレ」(イタリア語で「愛」の意味)と呼び、交際が公となりました。
プロポーズの場所はイタリア・ミラノで、「僕についてきてほしい。結婚してください」というシンプルな言葉で愛を誓いました。
結婚後、平愛梨さんは女優業を一時休止し、長友佑都の海外生活をサポートするためにイタリア、トルコ、フランスなど様々な国で生活を共にしました。
その間に3人の男児を授かり、2023年に日本に戻ってからは4人目の男児も誕生しています。
長友佑都はインタビューで「妻の支えがあるから、サッカー選手として最高のパフォーマンスができる」と語るなど、平愛梨さんへの感謝と愛情を公言しています。
また、4児の父となった今では、家族との時間も大切にしており、インスタグラムなどのSNSでは家族の様子も時折公開しています。
平愛梨さんも自身のSNSで家族の日常を綴り、長友佑都の試合にも子供たちと応援に駆けつけるなど、家族の絆を大切にしている様子が伺えます。
まとめ
ここまで長友佑都の出身地や経歴、年俸、家族、結婚・彼女について詳しく紹介しました。
海外で活躍し、サッカー日本代表にも召集されています。
今後の活躍がますます期待されます。
これからも、 長友佑都の活躍に注目していきましょう!